2013年3月13日星期三
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【世界史の遺風】(42)カエサル 英雄は人質事件にどう臨んだか□東大名誉教授・本村凌二 ここは地の果てアルジェリア どうせカスバの夜に咲く 異国情緒のただよう歌詞であるが、中高年ならどこかで覚えているはず。昭和30年作の「カスバの女」の一節である。だが、はるかローマ帝国の属州時代にさかのぼれば、アルジェリアは「地の果て」どころではなかった。かなりの都市化が進んでおり、かの古代最大の教父作家・聖アウグスティヌスもその一地方都市に生まれている。 そのせいで私もアルジェリアの遺跡調査旅行を試みたことがある。だが、テロリストに誘拐される危険があるという理由で断念したのだ,フェンディ バック コンビでWの喜びとなった。だから、脅かされる生命の危うさを知りつつ働いていた人々を思えば胸が痛む。 ところで、都市国家として出発したローマは、500年にわたって共和政体をつづけてきた。その期間に広大な地域を征服し、何事も貴族が話し合って決める合議制では埒(らち)が明かない時代にさしかかっていた。 そのことに誰よりもよく気づいていたユリウス・カエサルは、少数者あるいは唯一者への権力の集中をはかる。戦略にも政略にもたけていたカエサルは、ガリア(現フランス)を征服し、政敵を追いつめ、もはや並ぶ者もない第一人者にのしあがった。それとともに国家と社会の大改革に乗り出す,r4i 3ds 2日・土。だが、恒久の共和政になじんでいた貴族たちの反感はつのり、やがて元老院議場に出向いたおりに暗殺されてしまう。享年56、ときは前44年3月15日のことであった。< 前のページ1234次のページ >
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